昨日の日経新聞夕刊に、仏教学者の佐々木閑さんのコラム「社会に役立つ人材とは」がありました。
このコラムから、ブログやツイッターに投稿する上で考えることがありましたので紹介します。
佐々木さんはこの記事にこう書いています。
「全く人の利益になるようなことをしていないように見える人が、本当はもの凄く役に立っているという場合もある」
「その典型が、仏教の創始者、釈迦である」
理由は次の通りです。
- 釈迦は王子の身分を捨て、妻子も捨てて修行者となった
- その動機は「生きているのがつらくて仕方がないので、心おだやかな生き方を見つけたい」という個人的なもので、けっして「社会の役に立つことをしたい」などとは考えていなかった
- その後悟りを開いてブッダとなったが、その時点でもまだ自分の安楽を味わうばかりで、その境地を世の人々に解き広めようなどとは考えなかった
- まわりから懇願されて初めて、人々に教えを説き始めた
- 釈迦はこのように全く人の役に立たない半生を送ったが、その結果として仏教という宗教をこの世に生み出した
そして佐々木さんはこうまとめます。
一見するとなんの役にも立っていないように見える人が、実は私たちに途方もない恩恵を与えてくれるかもしれない。こう考えることで、人を見る目が変わる。判断の基準は、一つの方向に向かって一心に歩んでいるかどうか。
確かに、釈迦のような修行者だけでなく、芸術家や発明家、実業家などでも、後の世に大きな影響を与える何かを残した人々は、社会の役に立とうとしてそれを始めた人は少ないように思います。
最近ではアップルのスティーブ・ジョブズが思い当たりますね。
また、釈迦やジョブズと比べるにはおこがましいところですが、個人的には一個人が発信するブログやツイッターでも、誰かの役に立つ情報だけを発信しよう考えると、息が詰まってしまうような気がします。
芸術家の岡本太郎さんも、こんなことを言っています。
自分を認めさせいようとか、この社会のなかで自分がどういう役割を果たせるんだろうとか、いろいろ状況を考えたり、成果を計算したり、そういうことで自分を貫こうとしても、無意味な袋小路に入ってしまう。
いま、この瞬間。まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それがすべてだ。
(『自分の中に毒を持て』青春文庫 p194)
「社会に役立つ人になれ」「人の役に立て」ということばは、一見正しいよう聞こえます。
私も息子にこう言いがちです。
しかし時には、
ことを、佐々木さんのコラムから学びました。
ブログやツイッターでも、わが道を歩むことの大切さをもっと考えてみたいと思います。
以上、釈迦が修行者になった動機は全く個人的なもので、その半生は全く人の役に立たなかった、という話題でした。