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『ブッダが教える愉快な生き方』(藤田一照)からの学びのまとめ。

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新型コロナウイルス関連の情報の洪水に疲れたせいか、心がザワザワと落ち着きません。

頭を切り替えて、今よりずっと医療が未熟で不衛生だったはずの時代に生きたブッダの人生と教えに、『ブッダが教える愉快な生き方』(藤田一照 NHK出版)を読んで思いをはせてみます。

この本には、ブッダことゴータマ・シッダールタがどんな生まれで、なぜ出家し、どう修行をしてブッダとなったかについて、とてもわかりやすく書かれています。著者の藤田一照さんは禅僧で、長くアメリカで坐禅を指導し曹洞宗国際センター長を務め、スターバックスやフェイスブックでも教えてきた方だそうです。

この本からの学びを、キーワードとエピソード集として以下にまとめます。

 

仏教の始まり

紀元前五世紀頃のインドでシャカ族のゴータマ・シッダールタが覚りを開いてブッダ(目覚めた人)になったこと。

経典

ブッダが人びとに説いた教えが後にまとめられたもの。 

サンガ(僧伽[そうぎゃ]、修行者の共同体)

ブッダの学びを手本にして生きようとした人たちの集まり。 

仏教の特徴

行の宗教。行とは修行。神さまへの信仰を中核とする宗教とはタイプが違う。

修行

禅では座禅はもちろん掃除や食事など日常生活全般を修行ととらえる。生きることそのものから「学ぶ」ことが修行。

仏教の「学び」

学校の授業のような学びではない。日々の生活全般から、いつでもオーガニック(有機的)に学んでいく。

オーガニック・ラーニング

いつどこで学んだのか本人もわからないけれど、周りとの交流全体から自然に何かが学ばれていくような学び、への藤田一照さんの呼び名。たとえるなら、学校へ行く前の赤ちゃんの学び。

四門出遊(しもんしゅつゆう)

王族の息子として何不自由ない人生を宮殿の中だけで送っていた青年シッダールタが、初めて宮殿の外を見ようと東門から外出し「老人」を、次に南門から外出し「病人」を、次に西門から外出し「死者の葬列」を見て、「老・病・死」の苦しみがあることを知る。その後北門の外で出家修行者を見て、「いつか出家して老・病・死の苦しみを解決する道を探したい」という思いを持つ、というエピソード。おそらく史実ではないが仏教の出発点として非常に重要。

瞑想と苦行に見切り

瞑想の達人を訪ね瞑想法をマスターするも満足できず、その後苦行に六年間打ち込むも挫折。瞑想や苦行という意志によって心や体をコントロール(統制)する方法や技術は、統制をやめたら効果は消えてしまう。統制する技術の習得だけでは何も解決しないことに気づく。

「覚り」を開く

苦行後、菩提樹の下で静かに七日間坐り続けた末、覚りを開く。覚りを開くとは「成仏(じょうぶつ)」すなわち「仏(ブッダ=目覚めた人)」に「成(な)る」ということ。

ブッダ(=目覚めた人)の意味

藤田一照さんはこれを「自分が悪魔であることに気づいた人」という意味ではないかと書いている。悪魔というのは人間を道から踏み外させる衝動、いわゆる煩悩の神秘的な表現。ブッダは悪魔を悪魔だと知っている人。それは自分が悪魔であると知っているということ。「目覚めた人」でない私たちは、気づかずに悪魔に操られ、悪魔と出会うことすらできない。ブッダも樹下に打坐するまでは内なる悪魔と出会えなかった。

修行のゴール

ブッダが覚りを開いてからも悪魔がしばしば現れる。よって覚りが修行のゴールではない。むしろ覚ってからが本当の修行の始まり。

生老病死(しょうろうびょうし)

ブッダは四門出遊して知った「老・病・死」に「生まれる」ことを加え、生老病死はドゥッカ(バーリ語で思い通りにならない人生の絶対事実)であると言う。思い通りにならない理由は私たちが縁起として存在しているから。

縁起(えんぎ)

宇宙のすべての存在が無量無辺の因縁によって相互に影響し合いながら存在しあっているという、仏教の根本的ヴィジョン。生老病死はそういう「生かされて生きているいのちのあり方」から必然的に出てくるもの。私たちは縁起という働きのネットワークからたまたま生まれた存在。だからそのネットワークを勝手に操作することはできない。

苦しみ

生老病死という事実に対する私たちのリアクション(反応)として起きてくるもの。ブッダであっても生老病死から逃れることはできなかったが、その苦しみを乗り越えることはできた。苦しみを乗り越えるというのは、生老病死それ自体をなくすことではなく、それを深く理解し、受け入れて生きること。

六世紀頃インドから中国へ渡った達磨大師(だるまたいし)に始まると言われる。経典の解釈や注釈ばかりを重視する風潮に、ただひたすら座禅するという修行法、すなわちブッダが菩提樹下に坐ったように「ただ坐る」ことで経典の源にあるブッダの目覚めを学ぶことの大切さを伝えた。

なぜブッダは坐ったか

幼い頃、内心の促しに導かれて自発的に、ただ純粋に何も求めず坐り、よこしまな思いが湧かず、粗い思考が静まり、細かい思考が残っている状態(境地)に達した(初禅の境地)。この幼い頃の打坐に至る動機と態度に注目したからではないか。自分をコントロールするのでもなく、意志的に努力するのでもなく、一切の人為なしにただ坐った。子どものする遊びのような修行でなくてはいけないのではないか。

頑張らなくていい

ブッダは平安を求めて頑張ることから解放されて、ただ身心を整えて坐ることに、真の平安を見出した。平安を目指す苦しい道を歩くような修行ではなく、道を歩む一歩一歩にすでに平安があるような修行でなければならなかった。

ベトナム人禅僧テイク・ナット・ハン師のことば

ブッダはいつも微笑んで修行されていたはず。当時、地上で生きることを最も楽しんでいた一人では。

「受けたもう」

出羽三山の山伏修行で唯一発することを許される言葉。自分にやってきたことをすべてギフトとしてありがたくいただくという、とてもポジティブな態度。

不放逸

素面の状態、酔いが覚めた状態。思考や感情というお酒を飲みすぎて酔っ払い、前後不覚になる状態への戒め。

仏教における瞑想のポイント

覚めた素面の眼で刻々の体験をありのままにはっきりと観ること。パーリ語でヴィパッサナーという。

「苦しみ=痛み×抵抗」「幸せ=快感÷執着」

仏教が内的世界の観察から見出した二つの法則。苦しみを減らし、幸せを増すには、痛みへの抵抗を減らし、快感への執着を減らせばいい。

 

私的まとめ

これらの中で今の私に特にぐっとくるのは、「ブッダは自分が悪魔であることに気づいた人」というところです。だから覚りを開いてからもブッダには悪魔(=煩悩)が現れる、と本書は言います。それなら私にいつも悪魔(=煩悩)が現れるのは当たり前。考えるべきは煩悩が出ることではなく、出た後のことなのだとわかりました。

もう一つ印象的なのは、「ブッダは平安を求めて頑張ることから解放されてから平安を見出した」ということです。本書では、「No pain, No gain」や「頑張れば頑張るほど結果が良くなる、辛くても辛抱して頑張るというガンバリズム(努力至上主義)」という考え方に否定的です。「頑張らなくていい」と言い、「苦しい修行ではなく、愉快な修行」をすすめます。

他には、「生老病死」「ドゥッカ」「縁起」の関係についても忘れずにいたい内容です(※「ドゥッカ」は「苦」と訳されることばですね)。

またこの本の内容を知っておくと、「マインドフルネス」への理解もより深まると思います。

 

仏教の学びが一歩進んだ感覚と再読したい本

この本を読むことで仏教の学びが一歩進み、これまで読んできた仏教関連の本(印象的なところで、小池龍之介『考えない練習』、草薙龍瞬『反応しない練習』、南直哉『老師と少年』、アルボムッレ・スマナサーラ『怒らないこと』など)の内容の理解に、一本の筋が通ったような感覚があります。

今回学んだことを頭に入れて、これらの本をもう一度読んでみます。教えをより理解できて、新しい学びや発見があるような気がします!

 

以上、コロナウイルスの情報で疲れた心と頭に、ブッダの教えの紹介でした。

 

関連記事>>>
「われわれは幸福を求める。しかし、惨めさと死としか見いださない」(パスカル『パンセ』より) - しあわせ情報室 ← ブッダの言うドゥッカと似ています。
「人間は他者との比較の中で自分が幸福か不幸か判断する」を、否定することばを集めました。 - しあわせ情報室 ← 岩波文庫の『ブッダのことば』から引用があります。

 

紹介図書。薄くとも内容は濃い本です。>>> 

 

再読したい本たち>>> 

考えない練習 (小学館文庫)

考えない練習 (小学館文庫)

 
老師と少年 (新潮文庫)

老師と少年 (新潮文庫)

  • 作者:直哉, 南
  • 発売日: 2009/11/28
  • メディア: 文庫